千日回峰行は、天台宗独特の不動明王と一体となるための厳しい修行だという。
839年、天台宗第三世座主、慈覚大師円仁が遣唐使として唐に渡り、山西省五台山で修行、当時行われていた五台山五峰を巡拝する行を、帰国後弟子の相応和尚に伝授、これに「山川草木悉有仏性」(山や川、一木一草、石ころに至るまで仏性あり)の天台の教義と、日本古来の山岳信仰の流れが加わりいまの回峰行の基礎がつくられたのだそうだ。
千日回峰行と聞くと、「3年間歩きっぱなしですか?」と尋ねられることがあるが、一千日を7年間で回峰巡拝することになっている。現在の回峰行は、「十二年籠山」「回峰一千日」「堂入り」の全てを満行する厳しい行となっている。一千日の歩行距離は、実に地球一周である。
千日回峰行者は、未開の蓮の葉を象った桧笠をいただき、白装束に草鞋ばき、死出紐と宝剣を腰に持つ。もし行半ばで挫折した場合、自ら生命を絶つための短剣と死出紐である。その姿は、生身の不動明王を表すとも、また死装束ともいわれている。
1年目から3年目までは、1日に40キロの行程を毎年100日間行じる。4年目と5年目は、同じく40キロをそれぞれ200日。不動明王の真言「ナアマク サアマンダ センダンマアカロシャナ ソワタヤウンタラタ カンマン」をひたすら唱え、要所要所で般若心経を誦する。定められた礼拝の場所は300箇所近くある。
5年間700日までの修行を「自利行」と言い、自分自身のための修行であるとされる。そして700日の自利行を終えた行者は、「堂入り」という難行中の難行に挑む。これは9日間、断食・断水・不眠・不臥で不動明王の真言を唱え続けるもので、生き葬式とも言われる。食べず、飲まず、眠らず、横にもならず、9日間堂内には逆さ屏風を立て、10万遍の真言を唱え続ける。医学的には人間は生きていないとされる。
堂入りが終わって800日目からは、「利他行」すなわち真の不動明王のお使いとしての行が許される。800日目からは、これまでの行程に京都の赤山禅院への往復が加わり、1日約70キロの行程を100日。これを赤山苦行と呼ぶ。7年目は200日を巡る。前半の100日間は“京都大廻り”と呼ばれ、比叡山山中の他、赤山禅院から京都市内を巡礼し、全行程は84キロにもおよぶ。最後の100日間は、もとどおり比叡山山中40キロをめぐり満行となる。これにより、「大行満(だいぎょうまん)・大阿闍梨(だいあじゃり)」と尊称される。
7年で回峰行自体は終わっても、十二年籠山と言って十二年間は比叡山から下山することなく修行を続けることになる。
1200年に及ぶ比叡山延暦寺の歴史の中でさえ、千日回峰行を満行した行者さんは50人程しかいない。
私の父親代わり、赤山禅院住職の叡南覚照(えなみかくしょう)老師は、この天台修験道、千日回峰行を管領する「天台管領」であり、老師のもとには多くの行者さんが訪れ、そして育っていった。
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