千日回峰行は、「不動明王になる修行」と言われる。その修行の厳しさから、昔より朝野の尊崇を集めてきた。今でも信者さんや京都の人は、親しみをこめて「お山の阿闍梨さん」と呼ぶものの、阿闍梨様のわらじ履きの足を洗ったお湯さえ、ありがたがってもらっていかれた方があるほどだ。
私の父親代わりである御前様(叡南覚照老師)は葉巻、内海俊照大阿闍梨(現:叡南俊照師)はセブンスターをのんでおられた(お二人とも今は断煙)。御前様も阿闍梨様も、よく「ほれっ」と葉巻、タバコをそれぞれ下さったものだが、御前様の葉巻は目の前で封を切って吸えても、阿闍梨様から頂いたセブンスターは、有り難すぎてなかなか吸えない。値段は4倍ほど違うのにである。修行中の大阿闍梨はまさに「生き仏」。厳しい修行が畏敬の念を知らず知らずに起こさせる。
千日回峰行の中でも、もっとも厳しいのではないかと思われるのが、「堂入り」である。千日回峰行のうち、700日までの修行を「自利行」とされる。「自利行」とは自分を高めるための修行ということである。そして700日以降の修行を「化他行」(けたぎょう)とし、世のため人のための修行と位置づけるのだそうだ。その境目となるのが、「堂入り」である。
「堂入り」は、9日間の間、断食、断水、不眠、不臥でひたすら不動明王の真言を唱え続ける。10万遍にも上ると言われる。別名「生き葬式」と言われており、生きて出てくることができるかどうか判らないため、親族や他の住職たちと別れの儀式をしてから臨むまさに「決死の行」である。生きて還ってきた行者のみが人のために修行を続けることを許される。
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